「権力に勝る神様の愛」(2026年10月18日/江上牧師)

浦和教会日曜礼拝(三位一体後第十九)       2026.10.18

        「権力に勝る神様の愛」 ルカ22:24-30

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第三の日曜日を迎えました。今日は愛する浦和教会の皆さんと共に対面で礼拝をささげることができますことを感謝致します。私たち人間は、権力や財力を持つと自分が偉い者になったかのように錯覚してしまいます。権力や財力で人々を自分の前に屈服させようとします。警察官が理不尽な態度をとって、人々を苦しめるというような映画やドラマもあります。本当に謙遜な人は、いくら財力や権力を自分の手にしたとしても、それをあえて使用して自分を偉い人のように見せるということはしません。イエス様ご自身は神様であり、全能の力を持っていても、貧しい人々や弱い人々のためには、病気の人のためには、その力を発揮しておられますが、自分の栄光のため、自分を偉く見せるためには使われませんでした。ですから、イエス様の弟子たちは、当然イエス様の謙遜の姿勢を学ぶべきでしたが、権威と力に満ちたイエス様の弟子であることが、いかにも自分が偉くなったと勘違いして、イエス様の仕える姿勢に学んで、自分たちも仕える者、謙遜な者として生きるべきなのに、自分たちがイエス様の弟子であることを誇りにして、弟子であることを自慢するような、自分たちが偉い者のように考えてしまいました。そのような弟子たちに、イエス様が語られたのが今日の聖書の箇所です。今日は、ルカによる福音書22章24節から30節を通して、「権力に勝る神様の愛」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、自分を大きく見せようとする弟子たち

 24節を見ると、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」とあります。「という議論も起こった。」とありますから、23節には、「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」とあります。最後の晩餐の席でイエス様が、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」(22:21-22)と言われたものですから、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと」言い合いになり、それがいつの間にか、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、」という議論にすり替わってしまったのです。「わたしを裏切る者」とは、12弟子の中にいるわけです。裏切る者は、一番悪い弟子、駄目な弟子、弟子と名乗る資格のない者です。「誰が悪い。」という内容が、「誰が一番偉い。」となってしまったのです。他の弟子を批判し、「あの弟子は駄目だ、失格だ。」と言っているのは、結局は、「自分の方が偉いのだ。」とお互いに主張し合っているのに過ぎないのです。24節の「議論」という言葉の直訳は、「争いを好む」という意味があります。また、「偉い」という言葉の直訳は、「大きい」という意味で、「他の人よりも自分を大きく見せる」ということで、弟子たちは、12人の中で自分を一番大きく見せることに執着したのです。本来なら、イエス様が十字架刑につかれるという前夜、イエス様のお心はどれほど痛んでおられたのでしょうか。そのようなイエス様の心をよそに、弟子たちは、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、」というイエス様の思いに寄り添うのではなくて、自分自身の地位や名誉や権力に向いていたのです。親の心子知らず、イエス様の心、弟子知らずでしょう。私たちにも弟子たちと同じような思いがあることを否定できません。地位や名誉、権力というものは、人の心を奪い、関係を壊し、共同体、グループ等を弱らせ、最悪になれば崩壊してしまうのです。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、」という弟子たちの姿は、権力の誘惑がどれほど人間に大きな影響を与えるのかという事を示しているように思います。「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、」という弟子たちの議論は、この時だけではなく、いつもあらゆるところでの彼らの議論の中心でした。この世の価値観は「人からの評価」を最重視し、その中で他の人より「偉い、すごい、立派だ」と思われたいという人間の欲でしょう。

25節見ると、「そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」とあります。王や権力者は、民を支配して、権力をふるう者が守護者と呼ばれている、とイエス様は言われました。リビングバイブルには、「この世では、王や高官たちが、支配者として権力をほしいままにしています。」とあります。今の時代も変わらないですね。神様を全く恐れず、自分を神様のようにしているこの世の権力者たちの姿です。「守護者」とありますが、人々からまるで神様のように崇められているということを意味しているのでしょう。弟子たちの「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という論争はまさに、この世の権力者と何も変わらないものであったのではないでしょうか。そのような弟子たちに、イエス様はいつまでも残る「神様の国の価値観」をお示しになるのです。

 二、この世の価値観ではなく神の国の価値観に生きる

 26節には、「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」とあります。イエス様は、「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」と語られ、けれども、弟子たちは、そうであってはならないときっぱりと言われました。「異邦人」と訳されている言葉は、「ユダヤ人以外」というよりも、ローマ(ローマ皇帝)に支配されている人々のことでしょう。この世の基準、この世の価値観に生きようとする弟子たちに、「あなたがたはそれではいけない。」と釘を刺したのです。イエス様は、私の弟子であるならば、この世の価値観によって生きるのではなくて、神の国の価値観によって生きなさいと言われたのです。神の国における一番偉い人とは、人に対して上から目線で支配する人ではありません。人々からあがめられることを願うものでもありません。むしろその反対で、一番若い者のように、仕える者のようになりなさいとイエス様は言われました。「若い」という言葉は、「新しい」という意味もあるようです。知識も経験も浅い新人のように歩みなさいとも言えるのです。どのようなグループでも、新人は知識もなく、経験もありませんから、いろいろな人から学び、教えていただく立場です。「私にはもうできる」とか、「私にはもうわかっている」と思わず、自分は未熟な、経験のない者であることを認めて、教えられやすい者として生きるこということです。イエス様は、「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と言われました。「仕える」という言葉は、「給仕する」、「奉仕する」という意味もあります。一般的に「奉仕」と聞くとボランティアや無償の働きという意味で捉えられることが多いでしょう。しかし、聖書において「奉仕する」とは、「仕える」という意味です。無償で協力するというのではなくて、心を込めて仕える姿勢を持つことです。強く言えば、「下僕」「奴隷」のように仕える者になる、という意味です。イエス様は、自分の事しか見えていない弟子たちに語られました。弟子たちがいつも、どうして「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論になってしまうのかという問題点を指摘されるのです。「あなた方は、この世の基準、この世の価値観で判断していないか。生きていないか。」ということです。弟子たちは、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」とイエス様に指摘されて、自分は、自分だけはイエス様を裏切ることはしないという自信がありました。その強い自信が、あまりにも強くて、他の弟子たちを見下してしまい、自分の方が上だと勘違いしてしまったのです。他の人よりも自分の方が上だという考え方自体が、この世の価値観だとイエス様は言っておられるように思うのです。イエス様が求めておられることは、その逆のことなのです。だからイエス様は、「あなたがたはそれではいけない。」と強く釘を刺されたのです。現在、世界の上に立つ人々、リーダーシップを取る人たちは、弟子たちに語られたイエス様の言葉、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」という言葉は、受け入れられない言葉であり、つまらない言葉だと感じられるのでしょう。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」という言葉をリビングバイブルでは、「一番よく人に仕える人こそ、指導者になるのです。」とあり、まさに指導者こそ、一番上に立つ人こそ、一番仕える人なのだと思うのです。

 三、イエス様はだめな弟子たちをほめ、驚くべき約束をされた

 27節には、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」とあります。リビングバイブルには、「この世では、主人が食卓に着き、召使に給仕をさせます。だが、あなたがたの間では、それではいけません。このわたしが給仕してあげるのですから。」とあります。「この世では、主人が食卓に着き、召使に給仕をさせます。」というこの世の考え方がある。リビングバイブルでは、ここでも、「それではいけません。」とあります。「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」と弟子たちにとって、先生であり主であるイエス様が、「食事の席に着く人」であり、弟子たちに仕えられる者だけれども、「給仕する者」、仕える者となっているのです。イエス様は、最後の晩餐の席で、弟子たち一人ひとりの足を洗われました。つまり、奴隷のする働きを弟子たちにされたのです。弟子たちに仕えられたのです。それは、イエス様ご自身が自ら低くなり、しもべとして仕える姿をとられたのです。私たちの感覚では、偉い人はイスに座って給仕される人のことを言います。給仕する人は、席を整え、料理を準備し、適切なタイミングで料理を運ぶわけです。偉い人は、給仕する人ではなくて、席に座って給仕される側の人の事です。イエス様は、「それではいけません。」と言われるのです。偉い人とは、席に座って給仕を受ける人ではなくて、給仕する人、仕える人だと言われます。今まさに、イエス様ご自身が給仕する者、仕える者となっているという事実があるのです。28節を見ると、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」とあります。イエス様は、弟子たちをそのように評価されましたが、福音書を見る限りにおいて、そのような内容はありません。そして、この後は弟子たちはイエス様を見捨てて踏みとどまるどころか逃げてしまうのです。それにもかかわらず、イエス様は「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」と言われたのです。弟子たちを否定されるのではなく肯定され、弟子たちを叱るのではなくて褒められたのです。弟子たちは、イエス様の言葉を違う意味に捕らえたり、イエス様の語られた意味をそのまま受け取ることはできませんでした。イエス様のように仕える者ではなくて、自分が偉い者だと考えてしまう劣等生の弟子たちでした。その弟子たちに、「よく頑張ってきた。」と褒められたのです。29節、30節を見ると、「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」とあります。弟子たちが、「わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」という弟子たちの頑張りがあったので、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」と言われたのではありません。リビングバイブルには、「父が、わたしに御国をお任せくださったように、わたしも、あなたがたにすばらしい特権をあげましょう。」と弟子たちの頑張りではないのに弟子たちに特権を与えると約束されるのです。その特権とは、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」ということなのです。リビングバイブルには、「御国で、わたしの食卓に着き、共に食事をする特権、また王座に座って、イスラエルの十二の部族をさばく特権です。」とあります。イエス様は弟子たちに驚くような約束をされたのです。

 Ⅲ結論部

 このイエス様の弟子たちに対する約束は、世の終わりに実現するのでしょう。しかし、この約束は動き始めていると言えます。「王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」とは、世の終わりに先立ち、地上において、新しいイスラエルであるキリスト教会を治めることにあります。「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」とイエス様が言われたのは、これから建設されて行くキリスト教会の責任を弟子たちに委ねるということです。これから弟子たちが、キリスト教会の指導者として人々を教えて行くことの基本は、この世の基準や価値観ではなく、食事の席で給仕するように、仕えることによって教会を治めて行くということなのです。イエス様の身代わりの十字架の死は、人間がよく頑張ったからではなく、どうしようもない存在、罪にまみれた人間を滅びから救うために、イエス様は十字架で裁かれ、尊い血を流し、ご自分の体をささげられたのです。死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利し、ご自分が神であることを証明されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、罪ある私たちの全ての罪が完全に赦され、清められ、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。イエス様は「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」と言われました。失敗ばかりの弟子たち、不信仰な弟子たち、イエス様の十字架刑の前に日に「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という不謹慎な弟子たちに、苦しい時、試練の時、一緒に心を合わせてふみとどまった。耐え忍んだと言って下さったのは、ただイエス様の愛であり恵みなのです。私たちも、自分の信仰生活を顧みる時、自分の信仰が足りない、不信仰、イエス様のお心を痛めてばかりと思うことが多くあるのかも知れません。しかし、そんな私たちにイエス様は、「私を信じてくれた。私と共に歩んでくれた。私の愛を現してくれた。」と「頑張ったね」と評価して下さるのです。それは、私たちの頑張りでも、業績でもなく、大きな信仰があったわけでもなく、ただ、イエス様の罪人をそのままで受け入れて下さるイエス様の愛と恵み以外には考えられないのです。私たちは今のそのままの私が、イエス様の愛のゆえに、恵みのゆえに受け入れられていることを認めて感謝を現したいのです。  私たちの住む世界は、権力で、財力で人を従わせようとするものです。しかし、イエス様は愛によって私たちを導いて下さるのです。権力は、人を従わせますが、イエス様の愛は人を変えることができるのです。権力は恐れを生みますが、愛は信頼を生み出します。権力は上下関係を造ります。愛は、共に生きる関係を作るのです。イエス様が示して下さった愛は、人を支配する力ではなく、人を救い、和解させ、立ち上がらせる力です。イエス様に従う道は、仕える道です。この世において仕える道は、時には損をするように見え、弱く見えることがあるでしょう。しかし、イエス様は「一番よく人に仕える人こそ、指導者になるのです。」と言われたのです。イエス様の十字架の死は最も弱い存在に見えました。しかし、その十字架の死こそが、神様の最大の愛の現れだったのです。私たちは、そのままでイエス様に愛され、祝福を約束されている者として、この週もイエス様に全ての重荷をお任せして、お委ねして、イエス様と共に歩んでまいりましょう。